2012年4月1日日曜日

戦争、繁栄、そして恐慌


- 第10章 -

戦争、繁栄、そして恐慌

「米国民のビジネス(本分)はビジネス(商売)である。」

1930年代の大恐慌時代の無料給食施設 (The American History Slide Collection ©(IRC))

戦争と中立権

1914年のヨーロッパにおける戦争勃発(ドイツとオーストリア・ハンガリー帝国が英国・フランス・ロシアと戦った)は、当時の米国民にとって衝撃的な出来事であった。当初この戦争は遠くの出来事のように思えたが、間もなく米国の経済と政治も多大な影響を受けた。1915年までには、それまで軽度の不況下にあった米国の産業が、西側同盟諸国からの軍需品受注で再び活況を取り戻していた。米国民の3分の1は外国生まれであるか、または親が外国生まれであったため、戦争の当事国は双方がプロパガンダによって米国民の関心を得ようとした。また、英国とドイツはいずれも、公海における米国の海上輸送を制限したため、ウッドロー・ウィルソン大統領はこれに強く抗議した。

海を支配していた英国は、米国の輸送船を停止させて捜索し、ドイツに向かう「禁制品」を押収した。一方ドイツは、その主要な海軍兵器である潜水艦で、英国またはフランスに向かう輸送船を撃沈した。ウィルソン大統領は、米国は中立国として交戦諸国と貿易をする従来の権利を放棄しない、と警告した。また彼は、米国の船舶または生命が失われた場合には、米国がドイツの「厳格説明責任」を追及することを宣言した。1915年5月7日、ドイツの潜水艦が英国の客船ルシタニア号を撃沈し、米国人128人を含む1198人が死亡した。ウィルソンは、米国民の激しい怒りを代表し、客船および商船に対する攻撃の即時停止を要求した。

米国との戦争をぜひとも回避したいドイツは、民間船舶に対しては、それが敵国旗を掲げていても、発砲する前に警告をすることに同意した。しかし、1915年8月に英国汽船アラビック号が撃沈され、1916年3月にはフランスの客船サセックス号が魚雷により撃沈されるという2つの事件のあと、ウィルソン大統領は、ドイツが潜水艦による攻撃を放棄しない限りドイツとの国交を断絶する、という最後通告を出した。ドイツはこれに同意し、同年いっぱいは攻撃を控えた。

1916年の大統領選では、ウィルソンが「He kept us out of war(彼は米国の参戦を回避した)」とのスローガンの下で、再選を果たした。調停役を使命として与えられたと考えたウィルソンは、1917年1月22日、上院での演説で、交戦諸国に「勝利なき平和」を受け入れるよう促した。

米国の第1次世界大戦参戦

しかし、1917年1月31日、ドイツ政府は、潜水艦による無制限の攻撃を再開した。米国船5隻が撃沈された後、ウィルソン大統領は1917年4月2日、連邦議会に宣戦布告を要請し、議会はこれを直ちに承認した。米国政府は迅速に、軍隊、産業、労働組合、そして農業を動員した。連合軍の勝利を目前にした1918年10月までには、175万人以上の米軍兵士がフランスに配置されていた。

1918年の夏には、ジョン・J・パーシング将軍の率いる米軍部隊が、ドイツの最後の攻撃を阻止する上で決定的な役割を果たした。同年秋には、米軍がムーズ・アルゴンヌ攻勢で重要な役割を果たし、ドイツの名高いヒンデンブルク線を奪った。

ウィルソン大統領は、米国の参戦目的が、ドイツ国民との戦いではなく、その独裁政権との戦いであることを明確にすることによって、この戦争の早期終結に大きく貢献した。彼が1918年1月に上院に提出した「14カ条の平和原則」は、秘密の国際協定の廃止、海洋の自由、国家間の自由貿易、国家の軍備縮小、植民地の住民のための植民地問題の調整、ヨーロッパの従属国の自治を呼びかけるもので、中でも最も重要なのが、「大国・小国を問わず政治的独立と領土保全を相互に保証する」ような国際機構の設立の提案であった。

1918年10月、敗北が確実となったドイツ政府は、この14カ条に基づく交渉を行うようウィルソンに訴えた。1カ月間にわたる秘密の交渉が行われ、その結果ドイツに確実な保証は与えられず、11月11日に休戦協定が調印された(これは形の上では停戦であったが、事実上は降伏であった)。

国際連盟


たいになる方法

ウィルソンは、戦勝国が作成する最終的な条約が公正なものとなることを望んだが、4年以上にわたる戦争で大きな犠牲を払い、激怒していたヨーロッパ連合諸国の要求は厳しいものであった。ウィルソンは、平和への手段として彼が最大の希望を託していた国際連盟を実現するためには、彼の譲歩が必要であることを認識し、民族自決および公開外交をはじめとするいくつかの課題についてある程度妥協した。ウィルソンは、ラインラント全体を求めるフランスの要求を退け、またドイツに戦争費用をすべて負担させようとするフランスの主張をある程度和らげることに成功した。しかしながら、最終的な条約( ベルサイユ条約)では、フランスが石炭と鉄資源の豊富なザール盆地を占領することが定められ、ドイツに対しては極めて重い賠償金が科された。

最終的には、寛大かつ永続的な和平を提案したウィルソン案のうち十分に形をとどめていたのは、彼が条約の重要な要素としていた国際連盟だけであった。しかしウィルソンは、判断を誤り、共和党の有力者を条約交渉に関与させなかった。彼は党派色の強い文書を手に帰国し、米国の主権保護に関する共和党の懸念に応えるような譲歩をすることを拒否した。

条約批准が上院委員会で行き詰まると、ウィルソンは条約批准の支持を求めて全国行脚を始めた。1919年9月25日、困難な調停の苦労と戦時の大統領としてのプレッシャーで肉体的に疲弊しきっていたウィルソンは、重い脳卒中で倒れた。何週間も危篤状態にあったウィルソンは、完全に回復することはなかった。上院は、1919年11月と1920年3月の2度の投票で、再びベルサイユ条約と国際連盟を否決した。

国際連盟は、最後まで、世界秩序を維持する能力は得られなかった。ウィルソンの敗北は、米国民が、まだ国際問題で指導的な役割を果たす準備ができていないことを表していた。彼の空想的なビジョンは、一時的に国民を奮い立たせたが、それが現実と衝突すると、すぐに国際問題に対する幻滅が広がり、米国は本能的な孤立主義に立ち返った。

戦後の動揺

戦争から平和への移行期は騒然とした時代であった。戦後の経済ブームが発生すると同時に、消費者物価も急速に上昇した。戦時中はストを控えていた労働組合が、いくつかの順法闘争を起こした。1919年夏には人種暴動が発生した。これは、軍隊に入ったり、北部の軍需産業で働いたりした「新しい黒人」の台頭に対する不安を反映したものであった。

こうした出来事への反応が、新たな国際革命運動に対する全国的な恐怖心と結び付いた。1917年に、ロシアではボルシェビキが権力を握り、戦後はドイツとハンガリーで革命を試みた。1919年までには、彼らが米国にも到達したようであった。米国の社会党の過激派は、ボルシェビキの例に鼓舞され、大挙して社会党から離脱し、後の米国共産党を結成した。1919年4月、郵政公社は、著名な市民に宛てて郵送された40個近い爆発物を途中で押収した。ワシントンでは、A・ミッチェル・パーマー司法長官の自宅が爆破された。これに対し、パーマーは、連邦政府による急進派の一斉逮捕を許可し、米国市民でない者の多くを強制送還した。大きな攻撃は、急進派の仕業とされることが多く、革命の始まりであると言われた。

パーマーによる緊迫した警告は、「赤の恐怖」をかき立てたが、これは1920年代半ばまでには収まった。9月にウォール街で爆弾による死者が出たときでも、これが再燃することはなかった。しかしながら、1919 年以降、米国人の生活の表層からそう深くないところで、革命的共産主義に対する過激な敵意が常にくすぶっていた。

好況に沸く1920年代

ウィルソンは、戦争に気を取られ、戦後は脳卒中で倒れ、戦後のさまざまな課題は、ほとんどどれも適切に処理することができなかった。1920年半ばには、好況だった経済が崩壊を始めた。共和党の大統領・副大統領候補のウォーレン・G・ハーディングとカルビン・クーリッジが、民主党の候補ジェームズ・M・コックスとフランクリン・D・ルーズベルトを大差で破った。

憲法修正第19条が批准され、女性が初めて大統領選で投票した。

ハーディング政権の最初の2年間は、ウィルソン政権時代に始まった景気後退が続いていたが、1923年までには繁栄が回復していた。その後6年間、少なくとも都市部においては、米国史上最強の好景気が続いた。1920年代の政府の経済政策は、極めて保守的なものであり、政府が民間企業を促進すれば、その利益が他の国民にも及ぶ、という考え方に基づいていた。


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従って、共和党は、米国の産業にとって最も有利な条件を作り出そうとした。1922年のフォードニー・マッカンバー関税法と1930年のホーリー・スムート関税法により、米国の貿易障壁は新たな高水準に達し、米国製造業の各分野で次々と国内市場の独占が保証され、国際経済の再活性化に役立ったはずのヨーロッパとの健全な貿易が阻止された。大恐慌時代の初期に導入されたホーリー・スムート関税は、他の製造業国家からの報復を呼び、世界貿易の崩壊の悪循環の大きな要因となり、世界経済の窮状をますます悪化させた。

また連邦政府は、個人所得や法人に対する高い課税率は新たな事業への投資を妨げる、というアンドリュー・メロン財務長官の信念を反映し、減税制度を導入した。連邦議会は、1921年から1929年までの間に可決成立した立法によって、メロン長官の提案を支持した。

「米国民のビジネス(本分)はビジネス(商売)である」と宣言したカルビン・クーリッジは、バーモント生まれの副大統領だったが、1923年、ハーディング大統領の死去に伴い、大統領職を引き継ぎ、1924年には選挙で大統領に選出された。クーリッジは共和党の保守的な経済政策に従ったが、不運なハーディングに比べると、はるかに優れた管理能力を持っていた。ハーディング政権は、彼の死に先立つ数カ月間は、腐敗の嫌疑から抜け出せずにいた。

1920年代を通じて、民間企業には、建設ローン、有利な郵便配達契約、およびその他の間接的な補助制度など、多大な奨励策が与えられた。例えば、戦争中は政府の管理下にあった米国の鉄道が、1920年の交通法により、再び民営化されていた。政府が所有し、主に政府が運営していた商船隊は、民間の経営者に売却された。

しかしながら、農家は、1920年代の繁栄にあずかることが最も少なかったため、共和党の農業政策に対する批判が高まっていた。1900年以降、農産物価格が上昇した。戦時中は米国の農産物に対する需要がかつてないほど高まり、生産拡大を強く刺激したが、1920年末までには、戦時の需要が突然停止し、小麦やトウモロコシなどの主要作物の商業生産が急激に減少した。米国の農業が不況に陥った理由はいくつもあったが、最大の理由は海外市場の喪失であった。その原因のひとつは米国の関税政策に対する反動であったが、農産物の生産過剰が世界的な現象となっていたためでもあった。1930年代に大恐慌が発生すると、すでに危うい状態にあった農業経済は大きな打撃を受けた。

農業の窮状を除けば、1920年代は、ほとんどの米国民に、かつてない豊かな暮らしをもたらした。1920年代には、普通の家庭が初めて自動車を購入し、冷蔵庫や掃除機を買い、娯楽のためにラジオを聞き、映画を見に行った。真の繁栄が広がり、共和党はそれを自らの手柄として、政治的な恩恵を得た。

移民をめぐる緊張

1920年代に、米国は建国以来初めて、外国からの移民を厳しく制限した。長年にわたり、大量の外国人の流入はある程度の社会的緊張をもたらしていたが、移民の多くは北欧系であり、すぐに米国に同化し、そうでない場合もほとんどの米国人と何らかの共通点があった。しかし、19世紀末までには、移民の大半が南ヨーロッパおよび東ヨーロッパからの人々となっていた。1900年の国勢調査では、米国の人口はわずか7600万人強であったが、その後の15年間に、1500万人以上の移民が米国に入国した。

移民の約3分の2は、ロシア系ユダヤ人、ポーランド人、スラブ人、ギリシャ人、南イタリア人など、「より新しい」国籍あるいは民族の人々であった。彼らは、新教徒ではなく、北欧人でもなく、多くの米国人は彼らが米国に同化できないのではないかと懸念した。これらの移民は、きつくて危険な、低賃金の仕事に就くことが多かったが、彼らは米国生まれの労働者の賃金を引き下げている、と非難された。新しい移民は、ごみごみした都会の民族別の居住地に住みつき、旧世界の習慣を守り、ほとんど英語を覚えず、それぞれのニーズを満たす腐敗した政治組織を支持している、と見なされた。移民排斥主義者は、彼らをヨーロッパへ送り返すことを望み、ソーシャルワーカーは、彼らを米国に同化させようとした。いずれも、こ� ��した移民が米国のアイデンティティを脅かすものである、という点で意見が一致していた。


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第1次世界大戦によって一時停止していた大量の移民流入が1919年に再開されたが、間もなく、米国労働総同盟(AFL)や再編成されたクー・クラックス・クランなど多様な各種団体による強硬な反対にあった。こうした組織に属さない、古くからの米国人の多くは、非北欧人種の劣等性に関する一般の考え方を受け入れ、移民制限を支持した。もちろん、成熟しつつある国家が新たな移民をある程度制限することを支持する実際的な主張もあった。

1921年に、連邦議会は非常に厳しい緊急移民法を可決した。1924年には、これに代わってジョンソン・リード法が制定され、国籍別の移民数割当が定められた。これらの割り当ては、意図的に、まだ新しい移民の影響が見られなかった1890年の国勢調査を元に決められていた。南ヨーロッパや東ヨーロッパの民族グループから強く批判されたこの法律により、移民が大きく減少した。1929年以降は、大恐慌の経済的影響により、米国への移民はさらに減り、逆に海外への流出も見られるようになったが、ヨーロッパでファシズムが台頭してくると、それを逃れて米国に入国しようとする難民が増えた。

文化の衝突

1920年代には、都会化と非宗教化の進む社会が、田舎の古い伝統と衝突するにつれて、一部の米国民は、家庭と宗教に重点を置くことによって、近代生活に対する不満を表明した。ビリー・サンデーのようなキリスト教原理主義の牧師は、簡素な昔に戻ることを願う多くの人々に、そうした願望のはけ口を与えた。

このような願望がおそらく最も劇的に表出された例は、ダーウィンの生物進化論に対して聖書を盾に反論した宗教的原理主義者の闘いであった。1920年代に、米国中西部および南部の州議会では、進化論を教えることを禁止する法案が現れ始めた。この闘いの先頭に立ったのは、老齢のウィリアム・ジェニングズ・ブライアンであった。彼は長年にわたり、進歩主義の政治家であると同時に、地方の価値観を代弁する存在でもあった。ブライアンは、進化論反対の活動を、彼の初期の経済改革主義と巧みに調和させ、進化論は、「精神的な再生の必要性あるいは可能性を否定することによって、あらゆる改革を妨げるものである」と宣言した。

1925年にこの論争は最高潮に達した。同年、若い高校教師ジョン・スコープスが、公立学校で進化論を教えることを禁止するテネシー州の法律に違反したとして起訴された。この裁判は全米の注目を集め、派手に報道された。米国自由人権協会は、スコープスのために、著名な弁護士クラレンス・ダローを雇った。ブライアンは、自ら名乗りを上げて特別検察官の指名を勝ち取ったが、敵意ある証人としてダローに尋問される、という間違いを犯した。聖書の記述は比喩的なものではなく文字どおりの事実である、と主張するブライアンの支離滅裂な答弁は、広く批判された。この騒動の中でほとんど忘れ去られた存在となったスコープスは、結局有罪となったが、罰金は細かい手続き上の理由で破棄された。ブライアンは、この裁判が終 了してから間もなく死亡した。テネシー州は、スコープスの再審は行わないという賢明な決断を下した。都会の洗練された人々はキリスト教原理主義をあざけったが、米国の地方の小さな町では原理主義が強い勢力を保っていた。

文化の衝突のもうひとつの例は、禁酒法である。そしてこれは米国に、はるかに大きな影響を及ぼした。1919年に、ほぼ1世紀に及ぶ運動を経て、酒類の製造、販売、または輸送を禁止する憲法修正第18条が制定された。これは、米国社会から酒場と酔っぱらいをなくすことを目的としていたが、結果的には、何千もの「speakeasy(隠れ酒場)」と呼ばれる違法の酒場が誕生し、酒に酔うことがファッショナブルとされ、さらに違法な酒類の密輸(「bootlegging」)という新たな犯罪活動を生み出した。禁酒法は、米国の田舎では広く順守され、都市部では公然と違反が行われ、繁栄する20年代の人々の心情に訴える問題となった。しかし大恐慌が発生すると、次第にそれどころではなくなっていき、修正第18条は1933年に廃止された。

キリスト教原理主義と禁酒法は、近代主義の社会的・知的革命に対する広範な反応の一部であった。この社会革命は、「ジャズ時代」、「狂騒の20年代」、あるいは「燃える青春」の時代と呼ばれるようになった10年間の、マナーや道徳の変化に、最も顕著に表れていた。ビクトリア朝時代の堅苦しい社会的・道徳的秩序は、第1次世界大戦によって覆された。一般大衆にも繁栄が広がり、中流階級の若い層にも、自由で快楽主義的な生活が可能になった。


主な知識人はこれを支持した。20年代における最も重要な社会批評家であったH・L・メンケンは、米国にあふれるまやかしと腐敗を厳しく糾弾した。彼は主に、農村部と実業界にこうした特性を見出した。進歩主義運動を支持する批評家たちは、「人民」を信頼し、民主主義の拡大を求めた。これに対して、ニーチェを尊敬するエリート主義者であったメンケンは、歯に衣を着せず、庶民は「boob(間抜け)」であると述べ、米国の中流階級を「booboisie(ブーボアジー=間抜け階級)」と呼んだ。

小説家F・スコット・フィッツジェラルドは、「美しく呪われし者」(1922年)、「華麗なるギャツビー」(1925年)などの作品で、20年代の活気と混乱と失望を描いた。米国人として初めてノーベル文学賞を受賞したシンクレア・ルイスは、「本町通り」(1920年)および「バビット」(1922年)で、米国の主流派を風刺した。アーネスト・ヘミングウェーは、「陽はまた昇る」(1926年)および「武器よさらば」(1929年)で、戦争がもたらす憂鬱感を鮮やかに描いた。フィッツジェラルドやヘミングウェーをはじめとする多くの作家が20年代の大部分をパリで過ごしたことは、米国に対する彼らの疎外感をよく表している。

この時期にアフリカ系米国人の文化も花開いた。1910年から1930年までの間に、非常に多くのアフリカ系米国人が、雇用と個人の自由を求めて南部から北部へ移住した。その大半は、ニューヨークのハーレム地区、デトロイト、シカゴなどの都心部に住み着いた。1910年に、W・E・B・デュボイスをはじめとする知識人が、全米有色人種地位向上協会 (NAACP)を設立し、この組織はその後、アフリカ系米国人の意見が国内で重要性を増すことに貢献した。

アフリカ系米国人による文学・芸術運動が生まれ、「ハーレム・ルネッサンス」と呼ばれた。「失われた世代」と同様、ラングストン・ヒューズやカウンティー・カレンなどの詩人は、アフリカ系米国人の現実を正面から取り上げる一方で、中流階級の価値観と従来の文学形式を否定した。また、1920年代には、デューク・エリントン、キング・オリバー、ルイ・アームストロングなどのアフリカ系米国人ミュージシャンによって、ジャズが初めて米国文化における重要な存在となった。

大恐慌

1929年10月、高騰していた株式市場が暴落し、多くの投資家が無一文となった。株式市場の崩壊自体は大恐慌の原因ではなかったが、それは、行き過ぎた金融緩和政策によって、市場が抑制の効かない状態になっていたことを表していた。また、その結果、米国の融資に大きく依存していた不安定なヨーロッパ諸国の経済が悪化した。その後の3年間に、米国の景気後退として始まったものが、全世界的な恐慌へと広がっていった。商社や工場が閉鎖し、銀行は預金者の貯蓄を失って破たんした。農家の収入は約50%減少した。1932年11月までには、米国の労働者のほぼ5人に1人が失業していた。

1932年の大統領選では、大恐慌の原因とその対応策が論争の中心となった。大統領就任のわずか8カ月後に株式市場が大暴落するという不運に見舞われたハーバート・フーバー大統領は、それまでのどの大統領より懸命に不況と闘う努力をした。彼は、事業の組織化、公共事業日程の前倒し、企業や金融機関を援助するための再建金融公社の設立、そして議会の反対にもかかわらず住宅ローンを保証する機関の設置を実行した。しかし、そうした努力はほとんど効果がなく、フーバーは大きな敗北感を味わった。

フーバーの民主党対立候補フランクリン・D・ルーズベルトは、この経済危機が進む中で、すでにニューヨーク州知事として人気を博しており、彼の楽観主義には人を引きつけるものがあった。連邦政府の権限を使って、さらに大胆な実験的救済策を導入することを公約したルーズベルトは、一般投票で、フーバーの1570万票に対して2280万票を獲得し、圧勝した。米国は、経済的・政治的な変化の新たな時代に入ろうとしていた。



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