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●□ 『ネットワーク テーブル』第154号 天地シニアネットワーク
○■ 発行日 2005.6.30
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● TENTI・TODAY
◆[友メール]
● 会員の広場
◎『田舎暮らしと読書の愉しみ』
―「イリアス」と「オデュッセイア」(1)― 伊那 闊歩
◎「スペイン巡礼記・後半」 (その9) 村山 雅彦
◎ モンタナ旅物語(北米ロッキー山系ドライブ2000キロ) 魚山 釣太
◎ ≪一言・二言≫
● 提供情報 ■商品情報 ■新聞・雑誌■イベント
■ 有用URL■おすすめ図書
● 事務局から
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●TENTI・TODAY
◎NPO法人移行の準備を再度始めました。現状の任意団体でも良いのですが、その社会的理念と内容の継続を考えると、公益法人化をした方が良いと感じてい ます。ご意見ありましたらお寄せください。
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◎当事務所にも「ADSL回線を光ファイバーに」と変更を勧誘するTELがよくあり、ネットワークインフラ整備や家電のデジタル化は都市部中心に急速に浸 透しているようです。
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◎第6回天地講演会実施報告
日時:2005年6月24日(金)午後 会場:千代田区万世橋区民会館
演題:「世界の水、日本の水」 講師:安見昭雄
●講演の要点
1.水の歴史(世界) 2.水の歴史(日本) 3.水の神秘、水の不思議
4.世界の水事情 5.世界の水環境 6.水と食文化と健康
7.21世紀は、[水の世紀]、世界規模で水の危機 8.未知なる水の世界
{補足説明と質疑から}
・昔、墨田川の水は飲料に利用していた
・日本の排水の80%は「生活排水」である
・伏流水がおいしい水、水道水との違いがわかる
・水の良い所の酒と茶はうまい
・日本は水の実質大量輸入国;穀物、肉、水産物は全て水を消費した産物< br/>・地球温暖化により氷河消失が進行している、気象は激変するか?
{結論}
<水はすべてのもと、天から授かり、地から湧き出すもの >
天地シニアネットワークの講演テーマになじむ内容でありました。参加者11人。
次回講演会はゴルフをテーマとする予定です。
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◆[友メール]
◎ 来週の6月29日から約2ヵ月半の予定で、インド、パキスタンに出掛けます。今回は、かつてのヒマラヤ遠征の仲間から誘われて、カラコルムのバルトロ 氷河周辺(K2がある所)のトレッキングに行くのが主な目的ですが、小生は暇がたっぷりあるので、その前後に一人でインド、パキスタンの各地を回ることに しました。トレッキング中はともかくとして、訪問する町にインターネット・カフェがあれば、時々、現地から旅のご報告をさせて頂きます。なお、ホームペー ジに連載中の「熟年・個人旅行の勧め」も既に4回目まで進みました。つい最近掲載した、第4回:「続・旅の準備」編では、今回のパキスタン旅行の具体的な 準備に関するテーマで書きましたので、ぜひご覧頂ければ幸いです。
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◎盛夏に向かう折、いかがお過ごしでしょうか。
ADSL回線を光ファイバー(Bフレッツ)に変えるに併せ、メールアドレスを変更しました。アドレス帳を更新していただけますようお願い申し上げます。
【新アドレス】xxT.G)
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◎天地講演会に参加して・・・・
本日はありがとうございました。あれから家内と「万世」でハンバーグとビール一杯をいただいて帰りました。(H.
どのような製造品は、フロリダ州で生産されていますか?K )
{ご夫妻で参加されての事務局宛のメールです。会場が万世橋区民会館でした。}
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◎近況短歌(新築の二世帯住居にて)
ドアひとつ 隔てて子らに 守らるる 我が城 書斎と 寝室兼ぬる
我が室の 観音開きの 一画を 妻の座として 香を絶やさず
典座も 板につきたり 千六本 指も切らずに 無難にこなす
古書肆の 一顧もなかりし 和漢の書 抛りこみたり 屋根裏部屋に
(水沢竜夫 85歳)
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◎ 梅雨入りしたのに毎日雨の降らない夏のような日が続いています。
数日前から散歩は早朝になりました。とても日中は歩けません。今朝も曇りという天気予報が見事に外れて、朝からすばらしい青空です。5時過ぎに起き て、手賀沼遊歩道を歩いてきました。我が家から水生植物園往復の約45分です。早朝の散歩はさわやかな空気を受けて気分もさわやかになります。すれ違う人 に「おはようございます」と声をかけながら歩きます。昼間や夕方の散歩ではまず挨拶の言葉は出てきませんが、早朝は自然に声が出てきます。不思議なもので す。
(手賀沼通信第88号 新田良昭)
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◎ ネットワークテーブル153号に交通博物館が停車場のあととの記事がありました。開館いきさつの記事がみつかりましたのでコピーしました。(河野寿之 68歳)
----記事コピー抜粋--------
<新鐵道博物館(くわん)の建設>
昭和(せうわ)九年夏御茶の水兩國(りゃうごく)間の電車線が開通の結果(けっくわ)、中央線萬世橋驛は電車線専用驛に縮少(しゅくせう)されることと なり、今迄のやうな大(おほ)きな建物は不用となったので、その利用方法(はうはふ)を考へた結果、鐵道博物館とすることが一番適當(てきたう)であると いふこととなって、こゝに新築移轉することになりました。本館内に驛があり、省線電車利用者は・・・直ちに入場出来ます。執筆者:鐵道大臣官房研究所 江 角兼一
昭和11年4月発行「子供の科学」(第22巻第4号)誠文堂新光社
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● 会員の広場
◎『田舎暮らしと読書の愉しみ』
― 「イリアス」と「オデュッセイア」(1)―
伊那 闊歩(駒ヶ根市)
27
ドイツ人ハインリッヒ・シュリーマン(1822―1890)は、エーゲ海とダーダネルス海峡をのぞむトルコのヒッサルリクの丘を3年間にわたって発掘 し、1873年、なかば伝説的な古代都市トロイアの遺跡を発見した。20世紀になって再調査と詳しい研究がなされ、9層からなる遺跡の最下層から数えて7 番目の地層VIIAが、紀元前1250年頃に大規模な火災によって滅亡した都市の遺跡であることがわかり、これがトロイアの遺跡であることがほぼ確定し た。この時期、小アジア東方の強国ヒッタイトも滅亡し、エジプトではラムセスII世の治下、預言者モーセがイスラエルの民を率いて紅海をわたり、エジプト 脱出に成功していた。
トロイア戦争のクライマックスといえば、木馬によるトロイア城奇襲なのであるが、この壮大な戦記のすべてが「イリアス」と「オデュッセイア」に書かれて いるかというとそうではないのだ。「イリアス」には、9年間にわたるトロイア戦争のなかのほんの数日間におこったエピソードが書かれており、木馬による襲 撃についてはひとことも言及されていない。「オデュッセイア」の中では、トロイア戦争はもうとっくの昔に終わったこととして、アルキノオス王とナウシカ姫 の宮殿でひとりの楽人が、オデュッセウスに木馬の計についてかいつまんで謡って聞かせるだけにすぎないのだ。トロイア戦記は、じつは8編のエピック(叙事 詩)「キュプリア」「イリアス」「アイティオピス」「小イリアス」「イリオス落城」「ノストイ(帰国談)」「オデュッセイア」「テレゴニア」によって構成 されているという。このうち、ホメロスによって書かれたと伝えられる「イリアス」と「オデュッセイア」がとくに傑出していて有名なのである。8編のエピッ クのなかには、散逸してしまったす部分も多く、「テレゴニア」のように、あらずもがなの物語も含まれていて、外伝、異説の数も少なくないようだ。
最近の研究によれば、「イリアス」と「オデュッセイア」とが書かれたそれぞれの時期の間にはかなりの(数十年)時間差があるらしく、もしそうなら、ホメ ロスは当然「イリオス落城」を書いていたのではあるまいか。トロイア戦記すべてをホメロスが書いていたなら、どんなにすばらしいものができあがっていたこ とか、しかし一方「イリアス」と「オデュッセイア」だけでも現存していることが奇蹟のようにも思われる。
そのようなわけで、トロイア戦記をバランスよく紹介するためには、「イリアス」と「オデュッセイア」(それぞれ松平千秋訳、岩波文庫)だけでは足りな い。そこで、ここでは1000ページを超す大冊、ロバート・グレイヴス「ギリシャ神話」(高杉一郎訳、紀伊国屋書店)およびブルフィンチ「ギリシャ・ロー マ神話」(野上弥生子訳、岩波文庫)、そしてM・I・フィンリーの「オデュッセウスの世界」(下田立行訳、岩波文庫)などを援用することにした。
シュリーマンは少年時代、G・R・イエラー「子供のための世界史」を父から与えられ、難攻不落のトロイア城が陥落し、スカイア門が炎上する光景(の挿 絵)に深い感動を覚えたのだという。そして彼の自伝「古代への情熱」(新潮文庫ほか)は、今もなお人々に感動を与えつづけているのだ。
トロイア戦争の原因は、トロイアの王子パリスとスパルタの王妃ヘレネの駆け落ちにあるといわれるが、これより以前にじつはトロイア王プリアモスの姉ヘシ オーネが、ギリシャのテラモーン王の宮殿に誘拐されるという事件がおこっていた。これらふたつの事件のあいだには何の関係もないがヘシオーネ誘拐がトロイ ア戦争の遠因であり、ヘレネ誘拐が直接原因になったという。
ヘレネの父親は、全能の大神ゼウス、母親はスパルタ王テュンダレオスの妃レダである。愛と美の女神<笑顔の可愛い>アフロディテの父親もゼウスだが、母 親はタイタン神族の娘ディオネであるという。ヘレネとアフロディテは異母姉妹なのだ。ヘレネは、スパルタ王宮で<その美貌すべての女の中できわだつ>絶世 の美女として成長する。ここに<>で囲った語句はエピテトンといい、すべてホメロスが用いた枕詞でエピックの韻律を整えるためのものとされるが、その人物 のキャラクターを短い語句で的確効果的に表現しているのだ。
このほかにも<眼光輝く>アテネ、<脚速き>アキレウス、<機略縦横の、知略に富む>オデュッセウス、<その姿神にもまごう>アレクサンドロス(パリス のこと)など主要登場人物にはすべてこのエピテトンがつけられる。<大音声の誉れたかき、金髪うつくしき、アレスの寵児>メネラオスはヘレネの夫(スパル タ王)である。
余談になるが、米国ニューヨーク州にトロイという田舎町があり、そのすぐ近く、エリー湖の南フィンガーレイク(人の指のように細長い湖)のほとりにイサ カ(Ithaca)という町がある。ギリシャ語ではイタケ(イタキ)といい<知略に富む>オデュッセウスの生まれ故郷である。イタケはペロポンネソス半島 西側の海にある小さな島であるが、ニューヨークのイサカは名門コーネル大学があることでよく知られている。筆者はそこに一年間滞在させてもらったことがあ る。広大なキャンパス、手入れの行き届いた芝生の広場、そこにはニレやアメリカハナミズキの大木に囲まれて英国風のクラシックな建物がゆったりとたちなら ぶ。
イサカの町にはギリシャからの移民の人たちが多く、街路を歩けば<ジーンズ姿凛々しき>アイネイアスや、<ミニスカート眩しき>アフロディテ、<うなじ 白く胸美しき>ペネロペイア(オデュセウスの妃)、<かいな白く美貌きわだつ>ナウシカ姫に出くわし、なにか絵本の世界に入りこんだような非現実感をおぼ えたものだった。
(「イリアス」と「オデュッセイア」つづく)
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◎「スペイン巡礼記・後半」(その9) 村山 雅彦(66歳)
―レオン〜サンティアゴ・デ・コンポステラまで,再び一人歩き―
カリブの消費者の買い物行動は何ですか?
04年5月16日(日):Samos修道院―仮寝の夢は花山法皇か狂女王フアナか
(快晴、だんだん暑くなってくる;アルト・デ・ポイオ〜サモスSamos 21.1km/累計190.8km):昨日、宿が2軒しかない、それ以外はただ広々とした景色が広がるだけの峠の頂上に泊まったのは、今日の泊まりをサモ スSamosにあるベネディクト派の修道院にしたかったからである。昨日はベガ・デ・バルカールセからポイオ峠まで19.9kmしか歩かなかったので、昨 日と今日の2日間で40kmということになるが、そんな軽い行程にしたのも、サモス泊りから逆算してのことである。ガイド・ブックご推薦の行程は、前日は セブレイロ峠に泊まり、このサモスは通過して少し先の村に泊まるようになっているが、昨年、途中まで一緒に歩いたイギリスのキースとキャスリーン夫妻から のお勧めもあり、古い修道院の一廓に泊まってみたくなったのである。お蔭で予定を立てるときには前後の行程を短くしたり、逆に長くしたりで手間取ったけれ ど、これも手作りの一人旅、勝手気ままに作り変える面白さなのであろう。
短い行程の日ではあるが、それほど大きくないというサモス修道院のアルベルゲにはなるべく早く着いておきたいので、今日も06:00日の出前の暗いなか を出発する。昨日から出現したカウント・ダウンの道標には、あと140kmとの表示。もう僅かである。東の空に細い弓のような月が頼りない姿を見せていた かと思うまもなく、遠い山なみの上辺がくれない色に染まり、美しい朝がやってくる。
フォンフリアFonfria(07:15/28人)、ビドゥエドViduedo(07:50/25人)と小さな村落が続く。丘陵の上に広がる緑の畑が見 事な農村風景である。ビドゥエドには立派な田舎家の民宿casa ruralがあり、兼営しているバールでは朝食を出しているらしく、何組かの巡礼グループが首を突っ込んでいるが、こちらの胃腸はまだお目覚めではなく、 歩きの方もまだ調子が出て来ないので、素通り。陽射しが強くなってきたので、昨日の夕方には乾かなかったシャツと下着をバック・パックに安全ピンでぶら下 げて歩くことにする。
今日からはサンティアゴに向かって徐々に下ってゆくことになるが、セブレイロやポイオといった峠や山を越えると、カスティーヤ・イ・レオン地方とはすっ かり様相が変わっていて、雲や霞がたなびく下になだらかな丘陵が広がっており、放牧地なのか焼畑なのか、ところどころ野焼きの跡が見える。そこになんとも 見事なワラビの群落が出現している。ワラビと言っても地面から70〜80センチも伸び出した茎の上部にコゴミのような大きさの渦巻きが乗っかっている。民 謡・安曇節に「何を思案の有明山に 小首傾げて出たワラビ…」というくだりがあるが、ここのはそんな優しげなものではなく、こぶしを突き上げたような勢いの良いワラビで、数十万、いや数百 万、ひょっとすると数千万も、見渡す限り生えている。一本折り取って、舌先で舐めたり齧ったりしてみたが、やはりワラビである。(ワラビはこのあと、どこ に行ってもいやというほど繁っている。スペインというところはタコやイカを盛大に食べるようだが、さすがにワラビまでは食べないらしい。)
ワラビの丘をどんどん下ってゆくと、彼方には霧が立ち込めているのか、雲海のようにミルク色の雲がたなびいている。その中に入ってゆくと日のさすにつれて 雲も霞も消えてゆき、樫や胡桃の巨木の森を抜けながらいくつかの集落を辿るようになる。その一つ、トリアカステラTriacastelaの入り口で (09:50)、漸く腹が減ってきて、路傍のバールに飛び込み、カフェ・コン・レチェとなにやらパウンド・ケーキのような、カステラのようなものを一切れ 口にする。名前を尋ねると"Tarta de Santiago"(サンティアゴさまのケーキ)とのこと。さしずめ四国あたりで「お大師餅」とでもいうが如しなのだろうか。
さらにいくつかの集落を抜け、Iglesia de Santiagoと名づけられた小さな教会堂を覗いたり、刈り取った牧草を山積みした猫車や道端に放し飼いのニワトリの写真を撮ったりしながら降りてゆ く。
さほど急ではないが下り一方でいささか飽きが来たころ、突然カーン、カーンという鐘の音。ふと見ると足元の谷間に大きな修道院の建物(13:00)。こ れがどうしても泊まってみたくて行程調整に苦労したサモスSamosの修道院である。巡礼宿、アルベルゲは建物の北側1階の一部を占めており、2段ベッド が40セットくらい――まあ80人プラス床にマットを強いて20人、といったところだろうか。遅く到着して床に寝かされてはたまらない、そこも一杯で次の 宿まで足を伸ばすのはもっと辛いと、暗いうちに出発してきた甲斐あって、トイレから離れた下段のベッドを占有することが出来た。
16:00頃から、修道院の見学。6世紀というから、西ゴート王国の時代には既にそれらしきものがあったとされるこの修道院には、16世紀の建造という 見事な回廊が二つもあって、山中の谷あいという静かな環境で修業する修道僧達が、受付やガイドにあたっており、永平寺や高野山あたりの雰囲気にそっくりで ある。
ガイド・ツアーを待っている間に突然、「失礼ですが…」という日本語が聞こえてきて吃驚していると60歳くらいの日本人。スペインほか英米などの建築家 数人のグループで、「巡礼路の調査研究に来ています」とのこと。このグループはマイクロ・バスで回りながら、要所要所を歩いているそうだが、双方、久し振 りの日本語での会話が嬉しく、話が弾む。なんと同氏の96歳の父君は、小生が在職していた会社の大先輩で、こちらが新入社員の時、既に役員クラスだった方 のようである。もとより存じ上げていたわけではないが、これもsmall worldなのであろう。
スペイン中世の修道院というのは、敬虔な修業の場というイメージが強いが、わが国中世の僧院もそうであったように、かなり生臭い、時には血腥いエピソー ドが多々あったようである。西ゴート時代の王様のうちには、泥酔して眠りこけているうちに頭髪を剃り落とされて、眼を醒ましたのは修道院で、いったん落飾 したうえは還俗もならず、王位は弟だか従兄弟だかに奪われていたという気の毒を絵に描いたような王様もいる。有名なところでは、イサベル女王とフェルナン ド王の娘で、イサベルのあとカスティーリャの王位についたフアナ女王Reina Juana――スペインでは狂女王フアナJuana la Locaと呼ばれている――は入婿フェリーペ公の突然の死に狂気を発し、女王在位のまま50年近くもトルデシーリャスTordesillasというカス ティーリャ北部の寒村の修道尼院に幽閉されていたという。
今回サンティアゴ・デ・コンポステラに到達したあと、いくつかの町をまわったが、この50年という気の遠くなりそうな歳月、幽閉されていたという話に惹 かれて、現在のカスティーリャ・イ・レオン自治州々都であるバリャドリードValladolidからバスで1時間ほどのこの小さな街を訪ねてみたが、実際 には修道院ではなく、小さな城館に住み、しばしば修道院を訪れていたとのことであった。この修道院は今でも尼寺で、内部にはイスラム模様の美しい装飾が施 されており、赤味を帯びた外壁には緑の葡萄の樹が蔦のように這っており、そのコントラストは狂気の女王の悲話に一段と物悲しさを添えていた。
このあたりは、鞍馬山における義経の話、あるいは熊野那智における花山法皇の話と一脈相通ずるものがあるが、見方を変えると、修道院とか修道騎士団とい うものは王侯貴族からの寄進を受けた荘園のような存在で、修道僧たちだけで自給自足の経営にあたるところもあれば、農耕のための農民を支配下に抱えるとこ ろもあったようで、王位や爵位を継げない子女を修道(尼)院長のポストにつかせるケースも多かったようである。
サモス修道院の内部、特にゴシック期の回廊と中庭など見物しながら、鞍馬山や那智の滝など思い浮かべるのも随分と勝手なようだが、洋の東西、似通った話 はいろいろとあるもので、それらを見つけるのも楽しみの一つなのではないだろうか。ともあれ、時空を超えた空想を楽しみながら、この日は修道院の一廓、ア ルベルゲの2段ベッドで一夜の仮寝となった。(歩数31.2千歩)
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◎モンタナ旅物語(北米ロッキー山系ドライブ2000キロ) 魚山 釣太(70歳)
《序 節》
モンタナの大地は広い。そしてモンタナの空はそれ以上に大きい。見渡す限り、孤立したビュートの他に遮るものの無い広大な大草原を、そして屹立するロッ キー山系の山々を、果てしない大空の半球が覆っている。モンタナはビッグ・スカイ・カントリーとも呼ばれる。
オーシャンシティ、メリーランドは速い減量の先端を曲線
モンタナ州の総面積は、380,849平方キロで日本の国土の総面積よりも広い。しかも、日本の国土の大部分は人の居住や農耕、牧畜に適しない山地であ り、平野は全体の15%にすぎない。その狭隘な平地に一億二千万人がひしめき合っているのである。モンタナは、その70%が平原かなだらかな丘陵地であ る。そしてその広大な平地の人口は90万人にも満たない。モンタナの人口密度は1平方キロあたり僅か2.3人に過ぎない。日本の場合は、最も人口密度の低 い北海道でも、1平方キロ当たり68.2人である。しかもこのモンタナの大草原は、オクラホマ、カンザス、ネブラスカ、南北ダコタ、ワイオミング、コロラ ド各州にまたがるグレート・プレーリーの西端の一部をなしているに過ぎない。
しかも、この大平原の地下には、埋蔵量500億トンとも言われる石炭のほか、石油、銅、亜鉛その他の膨大な地下資源が今なお眠っているのである。
年間降雨量の少ないアメリカ中西部の農業や牧草地を支える水資源は、世界最大の地下水資源とされる「ハイ・プレーンズ帯水層」からの揚水灌漑に依存して いる。「ハイ・プレーンズ耐水層」は「オガララ帯水層」「アルカリー帯水層」および「プルーレ帯水層」から成るが、中でも「オガララ塁層(帯水層)」が最 大で、日本の国土面積の1.2倍、45万平方キロに及び、「ハイ・プレーンズ帯水層」全体の77%を占めている。サウス・ダコタ、ネブラスカ、ワイオミン グ、コロラド、カンザス、オクラホマ、ニュー・メキシコ、テキサスの8州にまたがっており、総貯水量は、1990年の推計で4兆トンと言われている。アメ リカ中西部の大平原を旅すると、所々でその独特の形をした揚水灌漑設備を目にする。
そしてアメリカの農業史で最重要発明とされるこの「センター・ピポット灌漑」の技術開発と、農産物を輸送する鉄道網の発達によって、中西部の農業は飛躍 的に発展した。
モンタナはこの膨大な地下水資源層からははずれているが、ロッキー山系から流れ出す雪解け水の豊富な水流で潤っている。
アメリカの国土の広大さ、農畜産物や鉱物資源を産出する大地の広さは、それだけでもアメリカの国力の源泉の大きさを物語っている。筆者は、これ等の諸州 やモンタナの大地を巡って、日本とは比較にもならない国力の潜在力の差を痛感せざるを得なかった。
モンタナ一州についても、数次の旅行だけではその全容を把握して紹介することは難しい。本稿では、主としてモンタナの西部地方、同州の3分の1を占める ロッキー山系の山岳地帯や、モンタナ州でも最も古い開拓の歴史を持つ諸都市を巡り、そこで見聞した風物や開拓史のエピソードの一部を記述したに過ぎない。 しかしそれでも、このモンタナの山岳地方の旅を計画される方々のためには、十分案内書として役立てていただけるし、また、実際に旅行されない人達にも、こ の地方の風物や歴史の特徴や手付かずの大自然を十分に感じ取っていただけるものと信じている。
(1) モニダ・パス
その日もよく晴れて、朝から真夏の強い陽射しがアイダホ・フォールズの町に降り注いでいた。アイダホ・フォールズは、アイダホ州で三番目に大きい、イー スタン・アイダホの中心都市で、市の真ん中をスネーク・リバーが流れ、その両岸の14マイルに及ぶグリーン・ベルトをはさんで発達した人口3万5千人の美 しい町である。
近郊に原子力研究所や放射性廃棄物貯蔵施設があり、また、町の55マイル西方には、世界最初の原子力発電所があって、日本で最初に原子力発電所が建設さ れた茨城県東海村と姉妹都市の関係にある。
イエロウストン・ナショナル・パークの西ゲイトのあるモンタナのウエスト・イエロウストンの町や、ワイオミングのティートン・ナショナル・パークにも近 く、観光基地としても大変便利な位置にある。
私達6人は、2台の車に分乗して、午前7時過ぎにホテルを後にし、インター・ステイト・ハイウエイ15号線を北に向かった。アメリカでは南北に走るハイ ウエイにはすべて奇数番号が、東西のそれには偶数番号がつけられている。今日は、宿泊予定地の、モンタナの州都へレナを目指して、約450キロを突っ走る 計画である。平均時速60マイル(約96キロ)での走行が可能なので、走行所用時間は4時間40分見ればよい。アメリカのハイウエイの制限時速は、都市部 を除き、殆どが65マイルである。部分的に75マイル(120キロ)まで許されるところもある。私の車には玉木姉妹が、旅の僚友・加藤氏の車には女流画家 2人が分乗した。
女流画家は、生来の優れた色彩感覚と個性的な画想で兵庫県下の画壇で活躍している高校時代の同級生とその友人の画家である。また、中学から大学まで同窓 だった玉木健男氏が夫妻で参加する予定だったのが、仕事の都合で急に玉木氏が不参加となったので、代わりに夫人のお姉さんが同行することになった。加藤氏 は、東京に本社のある綜合化学会社で海外事業関係の仕事を長年担当し、メキシコ・シティや北京での駐在経験もあり、また、退職後は、JICAの嘱託で、モ ンゴル、パキスタン、ベトナムなどの援助の仕事をしている。英語、スペイン語、中国語に通じ、海外旅行では頼りになる僚友である。
町を出るとすぐに視界が開け、広大な草原を貫く一直線の道になる。前方も左右も、見渡す限り豊かな農地や牧場がつながり、時折、小さな集落が点在する。 アメリカの西部では見慣れた風景である。大規模経営の農場には、麦、じゃがいも、豆類などが植えられており、牧場では、牛、馬、羊が放牧されている。
アメリカを旅すると、砂漠や、草木も生えない荒野も広大だが、豊堯な農地や牧場もそれ以上に広大である。一国の経済力の強さの基盤に、如何に農業が重要 であるかを思い知らされる。農産物だけでなく鉱業資源の豊富さは、我々日本人にはまさに圧倒的ですらある。
ニューヨークやロスアンジェルスなどの都市だけを見ていたのではこの国の本当の底力は理解できない。ましてや旅行会社が企画している、一般受けのする観 光地の上っ面をなでて回るようなツアー旅行などは、日本国内の団体慰安旅行と大差ない。ニューヨークはニューヨークであってアメリカではない。ニューヨー クやラスベガスを回ってもアメリカは分からない。アメリカの本当の姿は中西部や南部などの、むしろ地方にある。アメリカの本当の姿を理解したければ、旅行 会社が観光ツアーを計画しないところへ行ったほうが良いと言っても過言ではない。
イースタン・アイダホの北辺は、コンチネンタル・ディバイド(大陸分水嶺)のセンテニアル連山が東西に延び、モンタナとの州境になっている。ハイウエイ 15号線は、モニダ・パスでこの分水嶺を越えてモンタナに入る。
「パス」とは、山脈を超える峠道のことで、壁のように立ちはだかる山脈の途切れた鞍部のようになったところ、あるいは高山の切れ目の谷間のようになった 箇所で、比較的容易に山脈越えの出来る部分のことである。
カナダとの国境から南へモンタナ、ワイオミングとつづくアイダホ州の東側の州境は、コンチネンタル・ディバイドであるロッキー山系のビタールート山脈に ほぼ沿っている。北米大陸を南北に走る、このロッキー山系の3〜4千メートル級の山々は、かって西海岸アに向かって移動していくフロンティア・ラインの最 大の障壁であった。
1804〜5年のルイス・アンド・クラーク探検隊を始めとする幾つかの探検隊や、ファー・トラッパー(毛皮罠猟師)やファー・トレイダー(毛皮取引業 者)等のマウンテン・マンが、1830年代までの間に、次々に発見したパスが、開拓者達の西海岸への通路となり、更に現在ではハイウエイの通る峠越えの道 路となっている。
その中でも西部開拓の歴史上最も重要な役割を果たしたのが、ワイオミング州の西部で4千メートル級の高峰を南北に縦に連ねるウインド・リバー山脈を越え るサウス・パスである。1812年に、ロバート・スチュアートによって発見されたが、その時はそれほど重要視されなかった。その後、1824年にジム・ブ リッジャーによって再発見されて、オレゴン・トレールが開通することとなった。
このサウス・パスは、海抜2265メートルである。私達が今日超えようとしているモニダ・パスは標高2060メートルで、その東方50マイルの所で、三 日前に越えてウエスト・イエロウストンへ向かったターギー・パスが2122メートル、また、昨日、イエロウストンとティートン・ナショナル・パークの観光 を終えて、ワイオミングのジャクソン・ホールからアイダホ・フォールズへ帰るために通過したティートン・パスは2530メートル、更に、私達がモンタナの ロッキー山系サーキット・ツアーを終えて、帰路アイダホの最果ての町、サーモンへ抜ける際に通る予定のロスト・トレイル・パスは2100メートルである。
西部開拓史に大きな足跡を残したジェイムス(ジム)・ブリッジャーは、バージニア州リッチモンド近郊からセントルイスに移住してきた貧乏な家族の長男 で、1822年、若くしてウイリアム・H・アシュレイのファー・トラッパー遠征隊に参加してロッキー山中へ入った。それから20年間、ミズーリーからユタ まで、また、コロンビア川水源からニュー・メキシコに至る地域で、未開の山野に分け入ってファー・トラッパーとして生活した。白人として始めてユタのグ レート・ソルトレイクを発見したり、彼のサウス・パス再発見により開通したオレゴン・とレール沿いに、トレイデイング・ポスト=フォート・ブリッジャー (ブリッジャー砦)を建設して、通過する移住者達に補給物資を供給するなど、西部開拓に多大な貢献をした。毛皮取引が衰退した1940年頃からは、未開地 での豊富な知識経験を活かして、政府や陸軍の調査隊、測量遠征隊などのスカウト(斥候)や案内人として、数多くの探検隊に参加し、フロンティア初期の英雄 として西部開拓史に不朽の名を残すこととなった。
1776年のアメリカ独立宣言当時のアメリカ領は、大西洋岸沿いの海岸平野からアパラチア山脈の西側山麓までであったが、独立戦争を経て英国の植民地支 配を排除した十八世紀末には、それはミシシッピー川東岸にまで拡大していた。十九世紀に入り、第三代アメリカ大統領トマス・ジェファーソンは、1803 年、当時フランス領であった、ミシシッピー西岸から殆どロッキー山脈東山麓に至る、当時ルイジアナと呼ばれていた広大な地域(現在のルイジアナ州ではな い)をナポレオンから僅か1500万ドルで購入(ルイジアナ・パーチェイズ)して、その領土は、一気に北米大陸の3分の2近くを占めるに至った。しかし未 だ、テキサスやカリフォルニアはスペインから独立したメキシコの支配下にあり、ロッキー山脈西側の北西部、オレゴン地方は、その帰属が未確定の状態で、英 領カナダ人が進出し、ロシアもベーリング海峡を越えて、太平洋岸に砦を築くなどの動きを見せていた。
ジェファーソン大統領は、フロンテイア・ラインの西進に伴い、アメリカの領土を太平洋岸にまで拡大したいと考えていた。北西部太平洋岸へのアメリカの既 得権を確保するためにも、北米大陸を横断して太平洋岸に至る陸路の開拓を急がねばならなかった。
かくしてジェファーソン大統領は、連邦議会を説得して予算措置を確保し、有能な秘書の、メリーウエザー・ルイスとその僚友ウイリアム・クラークに、探検 隊を組織して、陸路太平洋岸に達するルートの開拓と、原住民の風俗・言語、動植物、気候、主要な地勢などの調査を命じた。ルイス・アンド・クラーク探検隊 は、1804年5月14日、イリノイ準州(当時)のウッド・リバー・キャンプを出発した。ミズリー川を遡り、ノース・ダコタのマンダン族の集落でその年の 冬を過ごした後、モンタナに入り、モンタナの大草原を横断してロッキーの東山麓に達する。そして、コンチネンタル、ディバイドを超えるルートを探して、幾 つもの支流を調査しながら、ミズリーの源流を目指した。苦心惨憺の末、モニダ・パスの約70マイル西北で遂にビタールート山脈を越えることが出来た。
彼らが、米国人として始めて大陸分水嶺の西側に星条旗を翻したときに通過したのがレムヒ・パスで、海抜2212メートルである。従って、オレゴン・トレ イルのサウス・パスは、周辺の他のパスと比較しても、標高に関する限り、必ずしも楽な峠道ではなかったのである。今でこそ自動車道路が整備されていて、峠 越えに何の苦労も伴わないが、当時の開拓者達は、原始のままの山岳の比較的低いところを、幌馬車を駆って、先人の轍の跡を、がたぴしとひたすら辿って行っ たのである。
アイダホ・フォールズの町を出発して約1時間のドライブで、センテニアル連山の南麓のハンフリーと言う小さな集落を通過した。この集落は既に海抜 1950メートルである。アイダホ・フォールズが1380メートルなので、約100キロ走行して気づかない間に570メートルも登っていたことになる。こ のあたりから道は緩やかな上り坂になる。6マイル先のモニダ・パスの最高点が2060メートルであるから、峠越えといっても実際には110メートル程の標 高差を登るだけである。時速60〜65マイル(90〜104キロ)での平地の走行から、安全のために45〜50マイルににスピードは落としたが 2000ccクラスの乗用車でトップ・ギアーのまま登攀できる程度の登りである。しかも道は山腹に沿った緩やかなカーブで、ハンドルを45〜60度ほど切 れば曲がれる程度である。
今回のドライブ・ツアーで通過した四つのパスのいずれでも、ロッキー山系の峠越えという緊張感や運転上の危険感を意識したことが無かった。
これに比較して日本の山岳道路は、道路幅が狭い上に急カーブと上り下りの連続で実にせせこましく危険に満ちている。峠越えともなると急峻なつづら折で、 ハンドルを右に左にいっぱいに切らなければ曲がりきれない、所謂、ヘアピン・カーブが連続して心身ともに疲れること甚だしい。もっともアメリカにはヘアピ ン・カーブという言葉は無く、180度方向を転換するカーブはホースシュウ・カーブである。ヘア・ピンよりも馬の蹄鉄の方がカーブがマイルドであり、同じ 180度のカーブでもそれぞれの特徴がよく現れている。
因みに、フレンチかスパニッシュ系の女性の名のようなモニダという可愛らしい名の由来は極めて単純である。モンタナのMONとアイダホのIDAを結びつ けるとMONIDA(モニダ)になる。アメリカの地名は、ヨーロッパの出身国の王侯や、大統領、時の有名人、開拓の功労者、入植者の出身地名、象徴的な史 実、特にインデアンの言葉や部族名などにもとづいたものが多く、このように単純な結語法で命名されたところは比較的珍しい。ワシントン州のシアトルも東部 アイダホのテンドイもインデアンの酋長の名前である。まだ、アイダホもインデアン語をもとにしてつけられた名で、「山上の宝石」または「山の上の太陽」と いう意味である。
モンタナに初めてヨーロッパ人がやって来たのは1743年のことで、フランス人のファー・トレイダー(毛皮取引業者)だったとされている。モンタナの東 部は、前述のルイジアナ・パーチェイズによって、またモンタナの西部は1846年のオレゴン・トリーテイ(オレゴン協約)によ、って米国領となった。
当時、ミシシッピー川以西のほぼロッキー山脈に至るまでの広大な地域は、フレンチ・アンド・インデアン戦争にフランスが敗れ、パリ条約でスペイン領に なっていたが、1800
年に、ナポレオンがサン・イルデフォンソ条約を強引にスペインに押し付けて再びフランス領にしてしまっていた。
ルイジアナがスペイン領である間はさして問題にならなかったが、ヨーロッパの強国フランス領になると、ミシシッピー川を下って農産物を運ぶ西部の農民に とっては、いろいろな不利益を生ずることとなった。そこでジェファーソン大統領は、フランスに対しミシシッピー川河口のニュー・オーリンズとその周辺地域 をアメリカに割譲するように交渉した。ところが意外なことに、ナポレオンはルイジアナ全域を譲渡すると回答してきたのである。かくして82万8千平方マイ ルの広大なルイジアナが、僅か1500万ドル(1エーカー僅か3セント)でアメリカのものになったのである。
フランスが何故ルイジアナを売却することにしたのかについては明確な史料が無く、確かなことはことは分かっていない。1802年のアミアン休戦条約で一 旦終息した英仏戦争が1年後に再開した。一方、1801年に起こったフランス植民地サント・ドミンゴの独立運動の反乱を鎮圧した精鋭部隊を、ナポレオンは そのままルイジアナに駐留させて、イギリスとの戦闘再開に備えようとしたが、疫病のためにこのフランス部隊は戦闘力を失ってしまった。ナポレオンはそのま まイギリスと戦争を始めるとルイジアナはイギリスに占領されてしまうので、それよりはアメリカに売却して戦費を調達したほうが得策だと考えたという説が有 力である。
1843年のオレゴン・トレールの開通によって、オレゴンへの移住者の数は飛躍的に増加し、それまでのイギリス人の数を超えた。1846年頃にはオレゴ ン全域の定住者の数は5000人を超え、この地方をアメリカ領とする素地が築かれた。そしてイギリスとの交渉の結果、1846年6月のオレゴン・トリー ティによって北緯49度線を英米の国境線とすることが決まり、オレゴン地方は正式にアメリカ領に編入された。
しかし、オレゴンの西海岸地帯には、1850年頃までは、キリスト教の伝道師や少数の毛皮商人が入り込んではいたが、まだコロンビア川河口付近への移住 者はいなかった。1851年11月、アーサー・デニー等に率いられた22名の最初の移民団が到着し、この地が定住に適した豊かな土地であることが知れわた り、それ以降年を追って飛躍的に人口が増加して行ったのである。
モンタナは、アイダホ・テリトリー(準州)の一部であったが、1864年にその東半分が分割されて新しいテリトリー(モンタナ準州)となり、1883年 のノーザン・パシフィック鉄道の開通で人口が増加して、1889年にアメリカの41番目の州に昇格した。
モンタナと言う地名については�03-5684-4487
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☆企画展「ある日のメルカード(市)風景」
=マヤのくに・グァテマラの生活と信仰
2005年6月2日〜7月10日(日)会場:たばこと塩の博物館特別展示室
入場料 100円 後援 グァテマラ・マヤ文化協会 休館月曜
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☆ 「新シルクロード展 〜幻に都楼蘭から永遠の都西安へ」
2005年4月〜7月3日(日) 江戸東京博物館
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☆中国研究会「中国華南と華東−産業集積特性と市場の魅力とリスク」
2005年7月2日(土) 13:30-15:30
講師:丸屋豊二郎(日本貿易振興機構・アジア経済研究所・研究企画部長(前JETRO上海センター所長))
場所:早稲田大学120号館 「開発研究センター」1号館(5F)501室
(地下鉄東西線 早稲田駅(高田馬場側)下車。3a出口(正面は吉村薬局)を出て、
左方に徒歩3分。道をはさんで右側に「早稲田大学 研究開発センター」の看板、
主催: 日本アジア経営・技術統合研究所(早稲田大学公認プロジェクト研究所)
所長:木下俊彦
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☆ 講座「これからの日本人。わたしたちはどこで間違ったのか」
2005年7月2日(土)14:00〜16:00
会場:シダックスビレッジ2階(渋谷区神南1-12-13) 参加費1000円
講師:蟹瀬誠一(明治大学教授 ニュースキャスター)
主催:(社)スコーレ家庭教育振興会
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☆「興福寺 勧進能」 能と狂言
2005年7月23日(土)国立能楽堂(千駄ヶ谷)後援 読売新聞社
一部12:30 二部17:00開演 9000円(A席)7000円(B)、5000円(C)
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● 事務局から
・7月5日、NPO法人化認証の事前相談のため都庁へいきます。
・広大なモンタナ、日本の川は滝だといった欧米人からみると、ヘアピンカーブは道路といえないのでしょうね。
・米国でドラエモンそっくりなキャラクタ(ブロードバンド宣伝用)が人気とか
・パソコンで旧漢字を(手書き)入力するのは手間がかかりました。
・会員からの商品紹介斡旋や事業企画協力をいたします。
・ご意見・感想文など長短にかかわらずお寄せください。旅行記、書評などでも結構です・これはという図書ありましたら、推薦してください。
・メール版を月に一回編集してプリント版をつくり、郵送しています。その際には郵送料込みで、1回分300円(3600円/年)の実費をいただいておりま す。
・振込先:三井住友銀行「神田支店」 (普通)7871532
(口座名)テンチシニアネットワーク
・配信・郵送不要の場合はご一報ください、中止いたします。
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天地シニアネットワーク事務局 (津田孚人、小俣光夫、小作暁介)
〒101-0063 東京都千代田区神田淡路町2丁目3番地2 第2亀田ビル5F
TEL・FAX 03-3253-8950
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